2018年4月16日(月)

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聖書一日一章     伝道者の書 2章

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神から離れて、だれが楽しむことができようか。(25節)

生きる意味を追究する著者は、いろいろ試してみました。まず、各地の高級なぶどう酒を味わってみました。次に、立派な邸宅を建て、美しい庭園を造ってみました。次に、世界各地から金銀の宝を収集し、男女の歌うたい団を作り、多くのそばめをはべらせてみました。さらに、10節では、「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした」と言います。普通の人なら、やりたいと思ってもできませんが、王なので、できたのです。もっとも、欲望のままにしていると言うよりは、生きる意味を見つけるための実験としてしているようです。実に、哲学者です。

しかし、求めるものは、見つかりませんでした。11節で、「私が手がけたあらゆる事業、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ」と言います。ここで著者が、自分がして来たことを「労苦」と言っていることに、「あれっ」と思いました。したいと思ったことを思いのままにしたのに、どうして「労苦」なのでしょうか。おそらく、「楽しい」と思って始めたことも、ずっと続けると、初めの頃の快感がなくなり、だんだん仕事みたいになって来るからでしょう。

さて、実験の結果、生きる意味は見つかりませんでした。著者ほどいろいろなことをやれる人はいませんから、この世では見つからないと言ってもよいでしょう。しかし、私は、著者が「私の目の欲するものは何でも」と言っているように、「目の欲するもの」つまり目に見えるもので生きる意味を見つけようとしたことが的はずれだったのではないかと思います。つまり、目に見えるもの、物質的なもの、肉体的なものでは、生きる意味が見つからないということです。生きる意味は目に見えないものにあるのです。著者もそのことに気づいているようです。25節で、「実に神から離れて、だれが楽しむことができようか」と言います。神を知らずに、ごちそうを食べたり、いろいろ楽しそうなことをしても、ほんとうに楽しむことができないと言うのです。ほんとうに楽しみ、幸せになるのは、神に愛されていることを感じ、心が満たされ、感謝にあふれるときでしょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成