2020年1月15日(水)

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聖書一日一章     レビ記 21章

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彼らは自分の神に対して聖でなければならない。(6節)

祭司たちが自分の身をきよく保つことについての掟です。幕屋で礼拝を執り行ない、神に近づく祭司は、特別に身をきよく保つことが求められました。死は当時汚れとみなされていたので、親しい人が死んでも、家族以外の人なら、近づいてはならないとされ、大祭司の場合は、家族でも近づいてはならないとされています。また、処女である女と結婚しなければならず、淫行で汚れている女はもちろん、離縁された女でも結婚してはならないとされています。また、祭司として生まれても、身に欠陥のある者は、礼拝の奉仕許されませんでした。21節では、「主への食物のささげ物を献げようと近寄ってはならない」と言われていて、その理由が感覚的にわかります。いけにえは神にささげる食物であり、祭司はいわば神の食事係なので、清潔でなければならないということです。しかし、ここで言われているきよさは、すべて外面的なもので、心のことではありません。旧約の啓示は、当時の人々が理解できる程度に合わせたもので、パウロが「養育係」と言うように、いわば、子ども用で、完全なものではありません。キリストは神についての完全な啓示をもたらされ、旧約の啓示を全面的に塗り変えられました。

ここで、汚れているので神に近づいてはならないと言われている人に、あるいは、汚れているので祭司は触れてはならないと言われている人に、キリストは近づき、触れられました。神に近づいてはならないと言われている身に欠陥のある者、目の見えない人、足の萎えた人に、手を触れて癒されました。汚れたとされている者の中でも「湿疹のある者」や「かさぶたのある者」は、感覚的に汚いという印象を与えますが、キリストはその最たるツァラアトの患者に手を伸ばして触れて癒されました。また、取税人たちといっしょにいた淫行で汚れた女、遊女たちにも、近づかれました。また、死人は汚れたものとされていましたが、ヨハネの福音書11章では、悪臭のするラザロの死体に近づかれました。キリストはそのように外面的に汚れたように見える人々に近づかれただけでなく、心の汚れた私たち人間に近づき、友となられました。キリストは汚れたものを嫌われるのではなく、どんなに汚れていてもきよめてしまわれるのです。

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