2020年2月15日(土)

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聖書一日一章     民数記 25章

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わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。(11節)

イスラエルの人々が荒野の40年の後、ヨルダン川の東側のモアブの草原に進んだとき、モアブの王は呪いをかけようとしましたが、神の介入で失敗しました。しかし、今度は、イスラエルのほうが失敗しました。男たちがモアブの娘たちと付き合い、食事に招かれ、その家の神々を拝んだというのです。そのため、神罰、おそらく疫病で、2万4千人が死にました。折も折り、イスラエルの男がミディアンの女を連れて来たので、アロンの孫ピネハスが二人を槍で串刺しにしたというのです。神罰とか串刺しとか、どぎつい話です。

しかし、この事件は平和な時代に何人かの人が罪を犯したという話ではありません。18節に「彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、あなたがたを襲った」とあるように、イスラエルを滅ぼすために仕組まれた罠でした。14節にあるように、ミディアンの女はミディアンのかしらの娘であり、男もシメオン族の長の息子でした。つまり、ミディアン人は、組織的にイスラエルの一部を手なずけ、内紛を起こそうとしたのです。敵に囲まれているイスラエルにとって、内紛は致命的で、生きるか死ぬかの戦いだったのです。

神は11節で、ピネハスについて、「わたしのねたみを自分のねたみとした」と言われます。ここでの神の「ねたみ」とは、ご自分の民がミディアン人に奪われることに対する悔しさです。言い替えれば、ご自分の民を失いたくない強い愛着です。ピネハスは、神のその愛着を自分のものとしたというのです。キリストは神の、ご自分の民を失いたくないという愛着を、だれよりもよく知っておられました。そして、その愛着をご自分のものとされたのです。キリストはルカの福音書15章で、迷子になった1匹の羊を捜す話をされましたが、それは、神のお気持ちであり、それを自分のものとしたキリストのお気持ちです。また、ヨハネの福音書6章39節で、「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終りの日によみがえらせることです」と言われました。キリストがいのちを捨てられたのは、神の失いたくない愛着をご自分のものにされてのことでした。私たちも少しでも神の愛着を自分のものとしましょう。

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