2021年1月27日(水)

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聖書一日一章     詩篇 11篇

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どうして、あなたがたは私のたましいに言うのか。(1節)

ダビデはこのときも悪い人たちに追われ、いのちの危険を感じていたようです。そんな中で、「主は、その王座が天にある」と言って、神を信頼します。

さて、1節で、「どうして、あなたがたは私のたましいに言うのか」と言います。「あなたがた」というのは、悪者どものことではなく、普通の人々のことです。彼らは悪者の仲間ではありませんが、かと言って、ダビデに味方をするわけではなく、傍観者を決め込んでいます。彼らは、「拠り所が壊されたら、正しい者に何ができるだろうか」と、ダビデを正しい者と認め、気遣っているようです。しかし、結局は「鳥のように、自分の山に飛んで行け」、つまり、「どこか遠い所へ行ってくれ」と、自分たちが巻き込まれないように、追放しようとするのです。ダビデが「私に言うのか」ではなく、「私のたましいに言うのか」と言っているのは、冷たい言葉がたましいにこたえたからでしょう。悪者がののしっても、最初から覚悟しているのでこたえないのに、普通の人々の冷たい言葉は、みんながそう思っているように感じるだけに、こたえるのです。私たちも良いことのために一生けん命しているときに、普通の人々の冷たい言葉でがっくりすることがあるでしょう。反対に、自分では気づかなくても、何げない言葉で、だれかをがっくりさせたことがきっとあるでしょう。私たちは、良い努力を否定するような、あるいは信仰を蔑むような冷たい言葉を、何げなくでも言わないように気をつけましょう。

ところで、キリストも普通の人々の冷たい言葉を受けられました。「マリヤの私生児」と言ったのは郷里の普通の人々でした。「十字架につけろ」と叫んだのも、パリサイ人ではなく、普通の人々でした。「神の子なら自分を救ってみろ」と言ったのも、通りすがりの普通の人々でした。キリストは普通の人々から冷たい言葉をかけられて、どんなに悲しかったことでしょうか。しかし、キリストは彼らの言葉で動揺されませんでした。人々のためにではなく、神のために働いておられたからです。彼らの言葉をものともせずに、神の使命を遂行されました。そのキリストの霊が私たちの内に宿っています。私たちも普通の人々の言葉に動揺せずに、神の使命に励みましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成