2021年3月4日(木)

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聖書一日一章     詩篇 47篇

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まことに、いと高き方、主は恐るべき方。(2節)

作者は神を世界のすべての国の民を治める王としてほめたたえます。「すべての国々の民よ。手をたたけ。」「全地を治める、大いなる王。」「神は国々を統べ治めておられる。」旧約時代には、神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、先祖たちの神と呼ばれていて、全知全能の偉大な神には違いなくても、あくまでイスラエル民族の神という認識でした。そんな時代に、作者は、神をすべての国の民を治める王としてほめたたえているのです。3節の「もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる」ぐらいですと、イスラエルの神であって、ほかの国の民を力で従わせるという感じで、ほかの国の民にとって真の王とは言えません。しかし、9節の、「国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの民として」では、すべての国の民が尊い人々として、アブラハムの民として集められるというのですから、どの国の民にとっても真の王です。このことは、キリストによって実現しました。神のひとり子キリストは、すべての人の王としてこの世に生まれ、神の国を建て上げ、すべての国の人々をご自分の尊い聖なる民として招いておられます。私たちも招かれ、そのような民として迎えられました。

ところで、2節では、「まことに、いと高き方、主は恐るべき方」と言います。私たちは聖書で、神が全知全能の神、宇宙の創造主、全世界の王だと教えられているので、このようなことを聞いても驚かないでしょう。しかし、信仰の始まりは、アブラハムが天からの声を聞いたことでした。耳に聞こえる声だったのか、心に聞こえる声だったのかはわかりませんが、「わたしが示す地へ行きなさい」という声を聞いて従ったのでした。そのとき、アブラハムは、その声のぬしが、全知全能の神、宇宙の創造主、全世界の王だと思ったでしょうか。おそらく個人的な出会いで、そんな恐るべき方だとは思わなかったでしょう。私たちもあるとき、キリストと出会いました。そのとき、キリストは、私の個人的な神として触れてくださったのではなかったでしょうか。そのキリストが神の御子で神に等しい方、神から天においても地においてもすべての権威をゆだねられた方、宇宙の王の王という恐るべき方だったのです。

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