2021年5月3日(月)

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聖書一日一章     詩篇 107篇

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主に贖われた者は、そう言え。(2節)

この詩は、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」という言葉で始まります。その言葉について、2節で、「主に贖われた者は、そう言え」と言います。ここで、「救われた者」とか「恵みにあずかった者」とかではなく、「贖われた者」と言っていることが心に留まりました。「贖われる」は「救われる」と同じ意味で使われることもありますが、ここでは特別な意味で使われています。「救われる」というのは一般的に救助されることですが、「贖われる」はどこから救助されるかが特別なのです。2節後半と3節では、敵国に囚われ、どうにものがれられない所から神に救助されたと言います。4節の段では、荒野で迷い、飢えと渇きで死にかけた絶体絶命のときに、神に救助されたと言います。10節の段では、横暴な者たちに捕えられ、鉄の鎖につながれ、苦役を強いられる絶望的な状態から、神に救助されたと言います。17節の段では、病気で食物をまったく受けつけなくなり、死にかけたときに、神に救助されたと言います。23節の段では、船乗りが、暴風にあい、波に翻弄され、望みが絶えたときに、神に救助されたと言います。33節の段では、日照りのために作物ができず、人々が飢えたときに、神に救助されたと言います。どの場合も、もうだめだとあきらめ、死を待つような状態からの救助です。そういう状態を旧約聖書では、「死に囚われる」と表現します。すると、「贖われる」というのは、死に囚われている人が助け出されることです。

ところで、挙げられている例の場合には、「神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた」とか、「自分の背きの罪のために苦しみを受けた」とあるように、その原因は罪です。つまり、「贖い」とは、罪のために死に囚われたところからの救助です。キリストはまさに、罪のために死に囚われた人を助け出すために来てくださいました。そのためには罪を償わねばならず、ご自分の尊いいのちをささげられました。それこそ、ここで言う「贖い」です。私たちがキリストによって贖われた者なら、2節で、「主に贖われた者はそう言え」と言うように、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と言いましょう。

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