2021年5月5日(水)

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聖書一日一章     詩篇 109篇

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主からの報いでありますように。(20節)

ダビデの詩です。神に、自分に悪を行う者を滅ぼし、痛めつけられている自分を救い出してくださるように祈っています。自分の救いを祈るのはよいのですが、悪を行う者の滅びを祈るのには抵抗を感じます。とくに、本人ならまだしも、9節で「子どもたちはみなしごとなり、妻はやもめとなりますように。彼の子らは、さまよいながら物乞いをしますように」と祈るのには強い抵抗を感じます。それは、マタイの福音書5章44節のキリストの言葉、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」のためでしょう。敵を愛するどころか、憎んで、不幸を祈っているからです。あるいは、マタイの福音書7章1節の言葉、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」のためでしょう。そう言われているのに、一方的に相手が悪いと決めつけ、その罰を神に求めているからです。もっとも迫害されていた時期のダビデなら、毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際で、罪のつけ入る隙がなかったかもしれませんが、一般的には、人間はみな罪人で、自分にも非があり、相手が一方的に悪いということはありません。ですから、キリストは、相手の目のちりを取ろうとする、つまり、相手の悪を責める前に、自分の目の梁を取る、つまり、自分の大きな悪に気づいて捨てるようにと言われたのです。

しかし、ローマ人への手紙12章19節では、かなりニュアンスが違います。「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」ここでは、復讐は禁じていますが、復讐心は認め、神にゆだねるように言っています。人間は弱く、ひどいことをされたときに、怒りや復讐心を押さえることができないからです。神にゆだねるためには、神に自分の気持ちを全部訴えて、わかってもらわなければなりません。この詩をそういう訴えと受けとめれば、理解できます。ダビデがこの詩で述べている気持ちを実行すれば、問題ですが、神にだけ訴えることは何の影響もありません。そして、激しく訴えれば訴えるほど、気持ちは落ち着き、怒りは静まるのです。ピリピ人への手紙4章6節は言います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安があなたがたの心と思いを守ってくれます。」

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