2021年6月12日(土)

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聖書一日一章     詩篇 137篇

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この右手もその巧みさを忘れるがよい。(5節)

作者は、バビロンに連れて来られたイスラエル人の捕囚の一人だったようで、「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた」と言います。そして、竪琴を弾く歌うたいだったようで、バビロンの役人たちから、余興に「シオンの歌を一つ歌え」と命じられたとき、「どうして私たちが異国の地で主の歌を歌えるだろうか」と思い、拒否して、竪琴を柳の木に掛けたと言うのです。作者にとって「主の歌」は、聖なる神殿で神をほめたたえる歌で、神を敬わない「異国の地」で、しかも余興で歌うことは、とてもできなかったのです。私たちにとっては、聖霊が働かれる所はどこも聖なる場所で、どこででも主をあがめ、賛美することができますが、それでも、神を信じない人々が酒に酔って騒いでいるような場所で、余興として賛美することはとてもできないのではないでしょうか。

さて、5節では、「エルサレムよ。もしも、私があなたを忘れてしまうなら、この右の手もその巧みさを忘れるがよい。もしも、私があなたを至上の喜びとしないなら、私の舌は上あごについてしまえばよい。」エルサレムにいつ帰れるか分からず、帰れないかもしれない状況の中で、エルサレムを決して忘れないという強い意志を、誓いの形で表明したものです。彼らはエルサレムへの郷土愛が強かったので、そう言っていますが、むしろ、エルサレムを神に置き換えたほうが良いのではないかと思います。つまり、神を忘れるなら、あるいは、神を至上の喜びとしないなら、そうなるようにと。彼らの竪琴を弾く巧みな指使い、人をほれぼれさせる美しい声と歌のうまさは、神が与えられたもので、しかもご自身をほめたたえさせるために与えられたもので、もし神を忘れてしまうなら、取り上げられて当然です。私たちは、歌うたいたちのような秀でた賜物はなくても、それぞれいろいろな賜物を与えられています。自分には賜物なんかないと思っていても、パウロが言うように、神は一人一人に何らかの賜物を与えておられるので、ほかの人には難しくても自分にはできるということがあるものです。そのような賜物は、神が与えられたもので、ご自身の栄光のために与えられたものです。ですから、神のためのものだということをいつも覚え、神のためになるように祈りましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成