2021年6月16日(水)

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聖書一日一章     詩篇 141篇

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頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。(5節)

ダビデの詩ですが、1節で、「主よ。私はあなたを呼び求めています。私のところに急いでください」と、必死で祈ります。どんな切羽詰った状況なのかはわかりませんが、ダビデは戦いの人で、いつも敵がいたので、そういうこともあったでしょう。9節では、「どうか、彼らが私に仕掛けた罠から、私を守ってください」と、悪者からの守りを祈ります。同時に、3節と4節では、「私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。私の心を悪に向けさせず、悪い行いに携わらないようにしてください」と、自分の内なる悪からの守りを祈ります。私たちは外側の悪や危険にはよく気づき、警戒しますが、内側の悪や危険にはなかなか気づきません。人を破滅させる一番の危険は、高ぶりや背信や肉欲への隷従など内側にあるのです。いつも自分の心の悪を告白しつつ、キリストの血による赦しを確認していきましょう。

さて、5節では、「正しい人が真実の愛をもって私を打ち、頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように」と祈ります。「正しい人が真実の愛をもって打つ」とは、ダビデがバテ・シェバのことで大きな罪を犯し、それを隠していたときに、預言者ナタンが彼を諫めましたが、そのようなことです。ダビデにとって、その罪を指摘されることはとても痛いことでしたし、ナタンにとっても偉い王を諌めることは大変重いことでしたが、ナタンはダビデのためを思って敢て言いました。ダビデはそれによって、神から王として失格だと宣告されないで済みました。それこそ愛をもって打つことです。だれにとっても、自分の罪を指摘されることは痛いことで、いやなことですが、必要なことです。怒ってそうしてくる人は多いですが、愛をもってそうしてくれる人はなかなかいません。しかし、キリストは愛をもって私たちの心の悪や罪を指摘してくださいます。5節では、「頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように」と言います。油で戒めるとは変な表現ですが、「私を打ち」に続いていることを考えると、打った傷を癒す油であることがわかります。打たれることは必要ですが、打たれるだけでは痛くて耐えられません。キリストは心の悪や罪を指摘して打たれますが、その傷を必ず癒してくださいます。癒してくださるからこそ、私たちはキリストの戒めをすなおに聞くことができるのです。

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