2021年7月24日(土)

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聖書一日一章     箴言 29章

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へりくだった人は誉れをつかむ。(23節)

ここには世間で言う「厄介な人」の例がたくさん出てきます。1節には、「叱責されても、なお、うなじを固くする者」とあります。してはいけないことをして、見つかって、叱責されたら、普通は謝って、「もうしません」と言うところですが、「どこが悪いんだ。けちをつけるのか」と言って、食ってかかるような人がいます。また、3節には、「遊女と交わる者は、財産を滅ぼす」とあります。いつの時代にも、酒と遊女におぼれ、身を持ち崩す人がいます。家族の中にそういう人が一人いるだけで、家族の悩みは尽きません。また、8節には、「嘲る者たちは町を騒がす」とあります。少し気に入らないことがあると、かんかんに怒って怒鳴り散らす人がいますが、周りはいつもピリピリしていなくてはなりません。さらに、10節に、「血に飢えた者たちは誠実な人を憎」むとあるように、そういう人が何人か集まれば恐ろしい暴力集団となります。近づくだけでも危険です。そこまでひどくなくても、11節に「愚かな者は感情のすべてをぶちまけ」とあり、22節に「怒る者は争いを引き起こす」とあります。感情をぶちまける人や、何かと怒って争いを引き起こす人は、ほんとうに厄介です。また、9節には、「知恵ある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒ってあざ笑い、安まることがない」とあります。良識のある人が、その人に、彼のしていることがどのように間違っていて、どれほど人に迷惑をかけているかを丁寧にきちんと説明したところで、怒ったりあざ笑ったりしてまともに聞かないので話ができないと言うのです。話ができない人が一番厄介です。

とはいえ、私たちは、人のことばかり言っておれるでしょうか。私たちは、人の目のちりは見えても、自分の目の梁は見えないものです。だれかのことを苦々しく思うより、自分のことを反省しましょう。たとえ、人にはそれほど厄介な人ではなくても、神に対してはそうとは言えません。私たちは、神に対しては、叱責されてもなおうなじを固くする者、欲望におぼれる者、気に入らないことがあればすぐに怒る者、話ができない者ではないでしょうか。それなのに、神は私たちを深く愛し、キリストによって赦し、聖霊によって心を造り変え、み言葉をすなおに聞くようにされたのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成