2021年7月31日(土)

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聖書一日一章     伝道者の書 5章

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労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。(19節)

ほんとうに意味のあるものを探求する著者は、この世のあらゆることを観察し、考察していきます。1節から7節では、礼拝をする上で、心にもない言葉、口先だけの誓い、悪を行いながらの偽善的敬虔さを戒めます。8節と9節では、社会の上から下までの搾取構造を暴きます。10節から17節では、財産は持っている人を幸せにしないばかりか、災いを引き起こすと言います。

さて、私は今日、19節の言葉が心に留まりました。「実に神は、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」3章では、「労苦の中に幸せを見出す」ことが神の賜物だと言いましたが、ここでは、喜ぶことが神の賜物だと言うのです。喜びは良い事があったときの反応で、良い事がないのに喜ばないのではないでしょうか。それなのに、ここでは、喜びは神の賜物で、良い事のあるなしとは別に、神から与えられるもので、それがあれば、労苦さえも喜ぶことができると言います。

キリストはマタイの福音書5章12節で、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから」と言われました。この喜びは、天国での報いを望み見ての喜びで、キリストがこの言葉を向けておられる迫害されている者たちでも持てるのです。また、ペテロはその第一の手紙1章8節で「あなたがたはことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」と言います。信仰による救いを得ていて、天国の報いを確約されているので、喜んでいるというのです。たしかに、天国での報いは地上の幸いとは比べものにならない幸いですから、確約されているなら、どんな境遇でも喜べるはずです。

しかし、そうだとしても、今現実にその幸いを味わっているわけではないので、なかなか喜べないのではないでしょうか。そこで、私たちにその喜びを感じさせるのが聖霊です。パウロはガラテヤ人への手紙5章22節で、聖霊の実として「愛」の次に「喜び」を挙げています。キリストを信じる者に与えられている聖霊は、永遠の救いの喜びを感じさせてくださるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成