2021年8月1日(日)

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聖書一日一章     伝道者の書 6章

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目が見ることは欲望のひとり歩きにまさる。(9節)

人生においてほんとうに意味のあるものを探求する著者は、この世のあらゆることを観察し、考察していますが、9節では、「欲望のひとり歩き」と言っています。欲望というのは悪く言われることが多いですが、本来は、生きるために、あるいは、成長するために必要なものを求める本能で、神の賜物だと思います。そうだとすれば、求めるものを得れば、満足して、静まればよいのですが、必要とは関係なしにひとり歩きするところが、大問題です。

たとえば、7節では、「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない」と言います。食欲は人が体に必要な栄養を摂るためのもので、食欲によって、人は食べ物を求め、働き、労苦もいといません。そうだとすれば、適度に食べて栄養を摂れれば、満足すればよいのですが、食欲は決して満たされないと言うのです。たしかに、十分食べても、もっと食べたい、もっとおいしい物を食べたいと思うのではないでしょうか。これは欲望のひとり歩きです。また、たとえば、3節では、「もし人が百人の子どもを持ち、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することがなかったなら」と言います。百人の子どもを持つということは、相当裕福だということで、お金、子宝、長寿と、幸福が三拍子そろった人なのですが、本人は自分の境遇に満足していないと言うのです。これも欲望のひとり歩きです。このように、欲望がひとり歩きすると、いつも物足りなさを感じ、満たされない思いを持つようになり、幸せを感じることができません。

欲望がひとり歩きするのは、人の内で欲望が主人となっていて、欲望に支配されているからです。パウロはエペソ人への手紙2章3節で、「かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行っていました」と言います。しかし、「あわれみ豊かな神は、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」と言います。キリストを信じる人は聖霊によって新しく生まれ、キリストを主人とし、もはや欲望に支配されていません。その上で、パウロはローマ人への手紙6章12節で、「ですから、からだを罪に支配させて、欲望に従ってはいけません」と勧めるのです。

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