2021年9月12日(日)

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聖書一日一章     イザヤ書 28章

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酔いどれが誇りとする冠は、足の下に踏みにじられる。(3節)

1節で、「わざわいだ。エフライムの酔いどれが誇りとする冠」と言いますが、「エフライム」は北のイスラエル王国の中心部族で、その国を指しています。「酔いどれ」は冠を誇りとすると言われていますので、冠をかぶる王のことで、「酔いどれ」という表現は、信仰から離れ、迷いに迷っていることを指しています。7節では、王に助言すべき祭司や預言者が行き当たりばったりのことを言って、ふらついていると言います。そんな王国はお先真っ暗ですが、5節では、「その日、万軍の主は、民の残りの者には輝かしい冠となる」と、神を信頼する人々に輝かしい未来を約束します。14節からは、「エルサレムで治める者たちよ」と言うように、南のユダ王国の王たちへの言葉です。16節では、神が「わたしはシオンに一つの石を礎として据える」と言われます。ペテロはその第一の手紙2章6節でこの言葉をキリストが救いの土台となられたことの預言として引用しています。

さて、3節では、「酔いどれが誇りとする冠は、足の下に踏みにじられる」と言います。国の危機に王が酔っているというのは、危ないことです。酔うと、危機意識がなくなってしまいます。また、何をしなければならないかを考えることができません。危機には必ず、改めなければならない何かがあるはずですが、それに気づきません。酔うと、心配なことやいやなことをみな忘れ、ある意味で幸せなのですが、確実に破滅が待っています。ですから、目を覚まさなければなりません。しかし、酔うのは酒だけではありません。私たちは、こうすれば幸せになるとか、ああすれば何もかもうまくいくといった迷信によって酔うことがあります。また、自分は強いから大丈夫だとか、自分は強運だから災いにあわないといったうぬぼれに酔うことがあります。あるいは、当時のイスラエル人は、自分たちは神に選ばれた民族だから滅びないという民族意識を持っていましたが、それも酔うようなものです。パウロはエペソ人への手紙5章18節で、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と言います。そして、「自分がどのように歩んでいるか、細かく注意を払いなさい。愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」と言い、「御霊に満たされなさい」と勧めます。

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