2021年9月20日(月)

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聖書一日一章     イザヤ書 36章

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おまえは何に拠り頼んでいるのか。(4節)

この章から39章までは、アッシリアの王センナケリブが大軍を率いて攻めて来て、エルサレムに迫った出来事の歴史的な記録です。この出来事は、列王記第二や歴代誌第二にも記されていて、列王記第二18章から20章までとほぼ同じです。アッシリアの王は、将軍を大軍とともにエルサレムに送り、降伏するように、ヒゼキヤ王とエルサレムの人々を脅しました。将軍は4節と5節で、「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと言うのか」と言っています。

偶像の神々しか知らない将軍には、イスラエルの神は「口先だけのことば」としか思えませんでした。そして、そのようなものに拠り頼んでいるヒゼキヤがとても愚かに見えたのです。将軍にとっては、8節で言っている「二千頭の馬」や、19節で言っている、国々を征服した実績が、実際に頼りになるものだったのです。使徒の働き18章には、パウロがギリシャのコリントにいたとき、その町のユダヤ人たちがローマの地方総督に、パウロが律法に反したことを教えていると訴えましたが、地方総督はその問題を「ことばや名称に関する問題」と言ったことが記されています。地方総督にとっては、信仰は単なる「ことばや名称に関する」ことだったのです。私たちが礼拝したり祈ったりしているのも、日本の多くの人にとっては、口先だけの言葉、名称に関することと思えるのでしょう。

しかし、イエス・キリストの御名は単なる口先だけの言葉でも名称でもありません。ルカの福音書10章17節には、悪霊につかれた人にその御名によって命じると、悪霊が服従したとあります。使徒の働き3章には、足が動かない人にその御名によって「立ち上がりなさい」と命じると、立ち上がって歩き出したとあります。ペテロは使徒の働き4章12節で、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」と言います。イエス・キリストの名が、口先だけの言葉や単なる名称なのか、病気を癒し、悪霊を追い出し、人を救う力あるものなのか、それを確かめるのは私たち自身です。キリストの御名を信じて祈り、その力を体験しましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成