2021年9月22日(水)

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聖書一日一章     イザヤ書 38章

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あなたは私のたましいを慕われます。(17節)

ユダ王国のヒゼキヤ王が重い病気になったとき、イザヤが「あなたは死ぬ。治らない」という神の言葉を伝えてきました。そのとき、ヒゼキヤは「どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、御目にかなうことを行ってきたことを」と祈り、大声で泣きました。すると即座に、イザヤに神の言葉がありました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。涙も見た。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加える。わたしは、アハズの日時計に落ちた影を十度後に戻す。」ヒゼキヤは、死なないで15年生きることが約束され、病気が治るまで、その保証として、日時計の陰が10度戻るという奇跡が起こるというのです。9節以下はヒゼキヤが回復したときに祈った祈りです。死を宣告された絶望感と苦しみ、死を免れた喜びと感謝を述べています。

さて、ヒゼキヤは、死の宣告に、どうしてそれほど悲しみ、死を免れたことがどうしてそれほどうれしかったのでしょうか。もちろん、だれでも死の宣告はショックで、それを免れたらうれしいでしょう。しかし、ヒゼキヤは敬虔な人で、神に拠り頼んできた人ですから、死を御心として受け入れ、神にゆだねるような信仰的対応はできなかったのでしょうか。この話はまだアッシリアの大軍が退却する前のことで、国家の危機に、責任のある自分は死ねないと思ったという考えもありますが、彼の祈りの中には、国のことは少しも出てきていませんので、そうではないようです。私は、死ぬべき時だと思えなかったのではないかと思います。パウロはテモテへの手紙第二4章6節で、「私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言っていますが、その時です。だれにも、死ぬべき時だと感じる時があって、その時には死を受け入れることができるし、その時が来るまでは死を受け入れられないのではないかと思います。ヒゼキヤがその時だとは思えなかった一つの理由は、死ぬときにはひとり神と向かい合わなければなりませんが、敬虔に見えても、まだその備えができていなかったのではないでしょうか。その点、私たちは、キリストを知っていて、すべての罪を赦され、神に全面的に受け入れられているという確信があるので、いつその時が来ても、受け入れやすいのではないでしょうか。

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