2021年9月23日(木)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章     イザヤ書 39章

_____________________________________________________________________________

自分が生きている間は平和と安定があるだろう。(8節)

ヒゼキヤ王の所に、バビロンの使者が来たときのことです。「彼は病気だったが元気になった、と聞いたから」とあるので、前の章の、ヒゼキヤの病気と回復を聞いた見舞いの使者でした。ヒゼキヤはことのほか喜び、王宮の宝物倉や武器庫をすべて見せました。どうしてそんなに喜んだのか、アッシリアが迫って来ていたときに、病気になり、回復したもののまだ本調子ではなかったときに、古くからの大国バビロンが手を結ぼうと言ってきたからです。それで、手を結ぶに価すると認めてもらおうと、お金と武器を見せたのです。

そのとき、イザヤが来て、「これらすべての物がバビロンへ運び去られる日々が来る」と言いました。バビロンが見舞いの使者を送って来たのは、外交戦略で、今は手を結んでも、どうせ強くなれば支配しようとするに違いありません。イスラエルは助けてくれると期待した相手に滅ぼされることになります。それはバビロンを頼みとしたからで、神を頼みとすべきでした。人を頼みとすると裏切られます。神を頼みとして失望することはありません。

ところで、イザヤの言葉を聞いたとき、ヒゼキヤは「あなたが告げてくれた主の言葉はありがたい」と言いました。どうしてそんなことを言ったのか、「自分が生きている間は平和と安定がある、と思ったのである」と解説しています。しかし、この言葉には違和感を感じます。将来、国が滅び、自分の子孫も国民も悲惨な目にあうのに、自分が生きている間だけ平和であればよい、彼のような敬虔な人がどうしてそんなことを考えるのでしょうか。しかし、人間というのはそんなものではないでしょうか。自分のことが大事で、自分さえ安全であれば、内心ほっとするのです。キリストは「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。それは本来人間にできることではありません。キリストによって新しく生まれ、聖霊を受け、聖霊によって初めてできることだと思います。私たちは、主の祈りで、「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈る前に、「御国が来ますように」「御心が地でも行われますように」と祈りますが、心からそう祈れるのは、聖霊によってだけです。私たちも、神の国のことをまず先に考える者にしていただきましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成