2021年9月30日(木)

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聖書一日一章     イザヤ書 46章

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あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。(4節)

神はここでは、偶像の神々を拝む愚かさを示し、唯一の神であるご自分だけを崇めるように戒められます。1節の「ベル」や「ネボ」はバビロンの神々で、それらの像は自分で動くこともできず、家畜に載せて運んでもらわなければなりません。金細工人たちは、袋に入っている金で、なんと、尊い「神」を造り、でき上がると、ひざまずいて拝むという具合にこっけいです。そして、9節から、ご自分こそが唯一の神であることを高らかに宣言されます。「わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは後のことを初めから告げる。」「わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」

ところで、3節と4節では、家畜に背負われて運ばれる偶像の神々とは対照的に、ご自分が人々を背負う神であることを強調されます。「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。」赤ちゃんが胎内にいるときも生まれてからも、抱かれ、背負われるというのは、ぴったり来ますが、白髪の老人が背負われるというのは、違和感があります。しかし、抱かれ、背負われるというのは、体の必要だけでなく、たましいが必要としていることです。赤ちゃんがすくすく育つために大事なことは、お乳と「だっこ」ではないでしょうか。お乳は栄養のために欠くことができませんが、抱かれ、背負われることも、守られていることと愛されていることを感じ、たましいが安らかになるために欠くことができません。赤ちゃんのときにそういう扱いを受けられなかった人は、大人になってもその欠けが尾を引くようです。大人になると、だれも抱いてくれませんし、世間の手前そんなことを望めませんが、そのたましいは赤ちゃんのたましいと同じで、抱かれ、背負われることを望んでいます。それは白髪の老人でも同じです。幸いなことに、神は赤ちゃんでも大人でも白髪の老人でも、求める者をみな、抱き、背負ってくださるのです。どんな年の人も、神がそうしてくださることを感じるとき、赤ちゃんのようになって、温かい柔らかいものに包まれ、たましいが安らぐのです。

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