2021年10月6日(水)
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聖書一日一章 イザヤ書 52章
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私たちの神の救いを見る。(10節)
1節では、「目覚めよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ」と、バビロンによって廃墟となったエルサレムが再び美しい町となることを預言します。7節では、「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせる人の足は」と言います。シオンつまりエルサレムの復興の知らせは、何よりも良い知らせで、それを伝える人の足は美しく感じられるというのです。パウロはローマ人への手紙10章15節で、この節を引用し、キリストを信じることで永遠のいのちが得られる福音、良い知らせと、それを伝える人に当てはめています。13節から15節では、「見よ、わたしのしもべは栄える。その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていたが」と言います。「わたしのしもべ」とあるように、「主のしもべの歌」の一つで、次の章の「主のしもべ」の苦難の預言に続きます。
さて、9節では、廃墟となっていたエルサレムに喜ぶように言い、10節では、地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る」と言います。廃墟となったエルサレムが復興することは、人間の力では不可能で、神の奇跡であり、神の目に見えない救いの働きを見える形で示すしるしでした。それによって、地の果てまでのすべての人が神の救いを見ると言うのです。世界のすべての人が神の救いを見るのなら、戦いに破れ、エルサレムが廃墟となったことも、無駄ではありませんでした。ここに、イスラエルの民が何度も苦難にあったことの意味があると思いました。イスラエルの民は、ほかの民族よりはるかに多くの苦難にあってきました。預言者たちは、彼らの不信仰のためだと説明しますが、そうだとすれば、神を信じず、神を冒涜している他の民族は、もっと多くの苦難にあわなければならないはずです。彼らがほかの民族より多くの苦難にあってきたことに理由があるとすれば、この一つのこと、世界のすべての人が神の救いを見ることのためでしょう。キリストを信じる人々も、ほかの人以上に苦難にあうことがあります。神に愛されている人々がそんな目にあう理由があるとすれば、神の救いのしるしとなって、すべての人が神の救いを見るためでしょう。
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