2021年10月9日(土)

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聖書一日一章     イザヤ書 55章

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わたしのところに、空しく帰って来ることはない。(11節)

神は1節で、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を」と言われます。神が気前よく、貴重な水も、穀物もぶどう酒も乳も、ただでふるまわれる様子です。神は恵み深く、ご自身を慕う者に良い物を気前よく与えてくださいます。しかし、ここでは、3節で、「そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ」と言っておられるので、水や穀物はたとえで、神が与えようとなさっているのは、永遠のいのちです。たしかに神は永遠のいのちを、キリストを信じるだけで、無条件で与えてくださいます。

8節では、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い」と言われます。神が気前よくただで与えられることは、私たちの常識とは異なっています。しかも、永遠のいのちという値段をつけられないほど貴重なものを、ただで、キリストを信じるだけで与えてくださるというのは、とても理解できません。それは、神の思いが、天が地よりも高いように、高いからだと言われるのです。神のことを常識から類推することはできません。

さて、私はとくに11節の言葉が心に留まりました。「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」神が語られて、神の口から出た言葉は、その通りにならないと、神が偽りを言われたことになるので、ならないなんてことはありません。その言葉は生きているかのように、しかも全能の力を持って生きているかのように、世界をその通りに変えていくのです。「光よ。あれ」と言われたら、光ができ、「大空があれ」と言われたら、大空ができたように。私たちが聖書を開くとき、神の口から出た言葉がそこにあるのです。その言葉はその通りにならない限り、消えてしまいません。その言葉が意味していることが必ず起こります。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成