2021年10月13日(水)

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聖書一日一章     イザヤ書 59章

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主の手が短くて救えないのではない。(1節)

イザヤはここでも人々の不信仰、自分中心の生き方、不正、偶像崇拝を責めます。そんな人々のことを5節では、「まむしの卵をかえし、くもの巣を織る」と言います。おもしろい言い方です。まむしの卵を温めてかえすと、かえって害になるものが出て来ます。くもの巣を織っても、服として使えません。神以外の何かを一番大事にし、そのためにがむしゃらに働いても、その労が役に立たないばかりか、自分を害することにもなるという意味です。

さて、1節と2節では、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、神との仕切りとなり、聞いてくださらないようにしたのだ」と言います。人々は、自分たちが苦境にあるのに、神は救ってくれない、神は救えないのではないかと思っていました。しかし、そんなことはありません。神は全能ですから、どんなに難しい状況でも救えます。また、救いたくないわけではありません。それどころか、16節で、「主は(救う)人がいないのを見て、啞然とされた。それで、ご自分の御腕で救いをもたらされた」と言うように、何とか救いたいと思っておられます。それなのに救われないのは、人々の罪がそうさせないようにしているというのです。人々は救ってほしいと思っているのに、自分たちがそれを妨げていたのです。

こういうことはよくあります。たとえば、友だちがいなくて、欲しいと思っている人が、実は、ひとりの時間が大好きで、誰にも邪魔されたくないと思っている場合です。良い悪いの問題ではないのですが、願っていることを妨げるものが自分自身の中にあるのです。あるいは、ちゃんとした所に勤めたいと思っている人が、実は、心の底では思いのまま自由に生きたいと思っている場合です。願っていることと、心の底から願っていることとが矛盾しているのです。同じように、神に助けてもらいたいと願っている私たちの中に、自分の力に対する自信や、これぐらい自分で何とかしたいという意地があり、矛盾しているのです。私たちはキリストを信じたときに、罪だらけ、間違いだらけの自分を見限り、すべてを主にゆだねたのではないでしょうか。ゆだねた限り、変な自信や意地を捨て、主にゆだねていきましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成