2021年10月16日(土)

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聖書一日一章     イザヤ書 62章

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あなたは主の手にある輝かしい冠となる。(3節)

神はここではエルサレムを回復させると熱く語られます。1節では、「わたしは黙っていない。その義が明るく光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」と言われます。4節では、「あなたは『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれ、あなたの国は『夫のある国』と呼ばれる」と言われます。「夫のある国」と呼ばれるとは、「夫」は神を指していますから、いわば神の妻になることです。夫である神から「わたしの喜びはあなただ」と言ってもらえるうれしい話です。パウロがエペソ人への手紙5章で、キリストを夫にたとえ、教会を妻にたとえていることを思い出します。キリストは、私たちに「わたしの喜びはあなたにある」と言ってくださるのです。

6節では、エルサレムの見張り番に対して、「一時も黙っていてはならない。主に求める者たちよ。休んではならない」と言われます。神の約束は、寝ていたら、いつの間にか実現するようなものではなく、信じて待ち望み、祈り求めることによって実現するものなので、そう言われるのです。キリストの再臨も同じです。来られることは確かですが、私たちが待ち望み、早く来てくださいと祈ることなしには実現しないこともまた真理です。

さて、3節では、「あなたは主の手にある輝かしい冠となる」と言われます。王の冠は王の権威と誉れと誇りを表すものです。「あなた」つまりエルサレムが神にとって誉れと誇りとなるということです。これは、教会にも、キリストを信じる一人一人にも言えます。私たちが神にとって、輝かしい冠となり、誉れと誇りとなるのです。多くの人々は何らかの冠を得たいと思って努力しています。勲章であったり、「長」のつく地位であったり、スポーツのメダルやカップであったり、何かの表彰状であったりします。しかし、冠を得られる人はわずかで、ほとんどの人は何の冠も得られません。そのため、人生の終わりに、何もできなかったと思わねばなりません。キリストを信じる人もそんなふうに感じることがあります。しかし、キリストは言われるのです。「冠を得られなかったって。あなた自身が冠だ。わたしはあなたがわたしのものであるだけで十分なのだ。」

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