2021年10月17日(日)

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聖書一日一章     イザヤ書 63章

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彼らの血の滴りを地に流れさせた。(6節)

1節から6節では、神が、エドムに激しい怒りをもって罰を与えたことを語られます。エドムは、旧約聖書のいろいろな箇所から推測すると、バビロン軍が攻めて来たときに、自分たちの安全のために、裏でイスラエルをバビロンに売ったようです。そのような卑怯なエドムに対する激しい怒りは、ご自身の民イスラエルに対する熱い愛情にほかなりません。7節から14節では、それを聞いて、イザヤが、神の昔からの恵みを思い出して語ります。「主は彼らの救い主となられた。彼らが苦しむときに、いつも主も苦しまれた。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」私たちにとっても、神は苦しむときにともに苦しみ、いつも背負い、罪を赦してくださる方です。なんとすばらしい神でしょうか。

ところで、1節から6節のエドムに対する復讐の描写はむごたらしくて、読み飛ばしてしまいたくなります。神がエドムの人々を、あたかも、ぶどう酒を造るときに、ぶどうを踏みつぶすように、虐殺し、ちょうどぶどうの赤い汁が飛び散り、衣にはねかかるように、血で衣が真っ赤になったと言われるのです。いくら、イスラエルを売った民とは言え、神がそこまでひどいことをされるのだろうかと思います。また、エドムはたまたまイスラエルの近くだったので、直接利害が対立し、裏切ることになりましたが、自分たちの安全のためにほかの国を餌食にすることは、どこの国でも同じです。エドムがこのような目にあうのなら、ほかの異邦の民もみなそんな目にあわなければなりません。私たちもエドムと少しも変わらない異邦の民です。

しかし、神の実際の思いとご計画は、まったく違っていました。神は私たちを虐殺し、その血で衣を真っ赤にされるのではなく、神の子が私たちの代わりに鞭打たれ、衣を血で真っ赤にし、私たちの代わりに十字架で虐殺され、その「血の滴りを地に流れさせ」られたのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成