2021年11月27日(土)

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聖書一日一章     エレミヤ書 38章

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そうすれば、あなたのたましいは生きながらえます。(20節)

イスラエル最後の王ゼデキヤの時代のことです。エルサレムはバビロン軍に攻められていて、滅亡が迫っていました。そんなときに、エレミヤは2節と3節のように、「この都は、必ず、バビロンの手に渡される。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、出て行く者は生きる」と、エルサレムの陥落を予告し、バビロン軍への投降を促していました。それを聞いた王の重臣たちは、彼を捕らえ、王宮の庭の地下水槽に投げ込みました。彼らはバビロンの王の支配を嫌い、徹底抗戦を主張していて、反対のことを言って人々の心をくじくエレミヤが邪魔だったのです。エレミヤは水槽の底で泥まみれになっていて、そのままなら衰え死ぬところでしたが、エベデ・メレクという人が彼を助けようと、王に嘆願したので、王は30人ほどの人を出してくれ、エレミヤは引き上げられ、助かりました。エレミヤはその後、エルサレムが陥落する日まで、「監視の庭」という所に拘留されていました。

さて、不可解なのは、ゼデキヤ王の行動です。重臣たちに、エレミヤを死刑にするように求められると、好きなようにしろと言い、エベデ・メレクから助命を嘆願されると、人手を送って助けるという具合に、真逆のことをしています。そうかと言えば、14節以下では、ひそかに自分のこれからの運命をエレミヤに尋ねています。ということは、彼を神の預言者と認めていたわけですが、それなのに、自分がこういう話をしたことをだれにも言わないようにと命じるのです。一人の人に中に、どうしてこのような真逆のことがあるのだろうかと思いますが、それは私たち自身の姿ではないでしょうか。パウロは、ガラテヤ人への手紙2章で、ペテロが、ユダヤ人も異邦人も、割礼を受けている者も受けていない者も違いはないと信じているのに、割礼派の人たちの前では、割礼を受けていない異邦人から距離を置いたことを、本心を偽った行動だと責めています。私たちもよく信仰と真逆の行動をするのではないでしょうか。それは、キリストを信じていながら、この世も愛し、また、この世から愛されたいと思うからでしょう。この世を愛してもこの世は決して愛してくれません。しかし、キリストを愛するなら、キリストはその何倍も愛してくださいます。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成