2022年1月13日(木)

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聖書一日一章     エゼキエル書 28章

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「私は神だ」と言った。(2節)

イスラエルの北のレバノンの地中海岸の港町ツロについての預言の続きです。当時、ツロは、地中海貿易と東方貿易の拠点として、大変栄えていました。前の章では、そのツロの滅亡が預言されていましたが、ここでは、その原因が高ぶりだと示されます。2節で神が、「あなたの心は高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなした」と言われます。自分のことを神だと思うとは信じがたいですが、これは個人の意識ではなく、町の人々の集団的意識のことでしょう。

そう思った一つの理由は、自分たちが大きな力を持っていたからです。当時のツロの経済力はすさまじく、どこかの国の王の首をすげ替えることも、一つの国をまるごと買うこともできました。実際、世界史で有名なカルタゴもツロのものでした。自分たちが世界地図を書き変える力があるとすれば、自分たちを神のようにみなしたとしても不思議ではありません。日本もバブルの項、一国を買えるほどの経済力を持ったことがありましたが、そのまま続いていれば、そう思ったかもしれません。そうならなくて幸いでした。

もう一つは、「自分の心を神のようにみなした」とあるように、その知恵、判断力、美的センスがすぐれていたからです。商いで成功するためには、知恵が必要です。船に投資し、商品を買いつけ、売って利益を出さなければなりません。そういう商いにことごとく成功すれば、自分たちの知恵を神の知恵のように思っても不思議ではありません。また、宝石や工芸品などを取り扱うためには、目利きや美的センスが必要です。いつも取り扱っていると、そのセンスがどんどん研ぎ澄まされていきます。そうなると、自分たちのセンスは完全だ、絶対間違いないと思ったことでしょう。それはほとんど自分たちが神の霊を持っていると思うことです。私たちは凡才なので、そんなことはありませんが、もしすごい天才であれば、きっとそう思って高ぶったことでしょう。自分が浅はかで、高ぶりやすい愚か者であることを覚えましょう。同時に、キリストが、神であられたのに、人間となり、神であることを誇らず、謙遜に歩まれたことを覚えましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成