2022年1月19日(水)

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聖書一日一章     エゼキエル書 34章

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わたしがわたしの羊を飼う。(15節)

ここには、神が御子キリストを人々の牧者として遣わされたお気持ちがすべて表されています。

神は1節から8節で、イスラエルの王たちのことを「牧者たち」と呼び、羊である国民を養わなければならないのに、自分自身を肥やしていると責め、そのため国民は「散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった」と嘆かれます。そこで、9節から16節で言われます。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを探し求め、これを探し出す。」「国々から彼らを集める。」「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。」「失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。」

しかし、問題は王たちだけではありません。国民自身の中にありました。17節から22節で、一部の羊が良い牧草地を独り占めし、十分に食べた上、残りを足で踏み荒らしたので、ほかの羊は踏み荒らされた草を食べ、濁った水を飲んでいる。そうして、ある羊はますます肥え、ある羊はますます痩せ、強い羊は弱い羊を押しのけ、追い散らすと言われます。そのため、23節で、「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる」と言われます。これは明らかに、ダビデの子孫で、すべての人の牧者となられるキリストを預言しています。王たちだけの問題であれば、神ご自身が治められれば、解決しますが、人々に問題があるので、人々の中に入って人々を導く牧者が必要です。そこで、人間の牧者を遣わされるのです。しかし、人々の問題は深刻です。ここでは、牧草地を独り占めする肥えた羊が悪いような印象を受けますが、瘦せた羊も立場が変われば横柄になるもので、羊の性質つまり人々の人間性に問題があるのです。それでは、どうすればよいか、ここでは明らかにされていませんが、キリストの贖いしかありません。つまり、キリストがすべての人の身代りとなり、その悪い人間性を十字架で釘づけにし、同時にご自身のきよい人間性を人々に付与されることです。それこそが羊のためにいのちをかける真の牧者の姿で、キリストこそそのような牧者なのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成