2022年4月6日(水)

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聖書一日一章     ゼカリヤ書 2章

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城壁のない町のようになる。(4節)

イスラエルの国が滅び、人々がバビロンに連れて行かれて数十年、ペルシャ帝国のキュロス王によって奇跡的に解放され、すぐに帰国してエルサレムの神殿の再建に着手しましたが、礎を据えた時点で、外国人の反対運動で工事を中止してしまいました。それから15年、神から言葉を受けて、工事を再開するように呼びかけたのが、ハガイとこのゼカリヤでした。

ゼカリヤは、神から幻を何度も見せられます。ここでは、測り綱を手に持った天使がエルサレムの町の寸法を測りに行ったのですが、もうひとりの天使が彼を追いかけて、測る必要がないことを伝えるという幻です。最初の天使が測りに行ったのは、城壁を築くためでしたが、測る必要がないのは、4節にあるように、エルサレムが城壁のない町となるからです。城壁のない町となるのは、神が守られ、その守りで十分だからです。この幻は、エルサレムの城壁が崩されたままであることで心配していた人々に神の守りを信じるように教えるものでした。神は、5節では、「わたしがそれを取り巻く火の城壁となる」と言われます。8節では、「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者」と言われます。だれかが瞳に触れようとすると、とっさにその手を払いのけますが、神も、だれかが危害を加えようとすると、ご自身の瞳であるかのように、払いのけられるのです。

城壁がないということは、当時の人々にはとても不安なことでした。しかし、考えてみると、城壁があるということは、いつでも攻められる恐れがあり、城壁を盾にして戦わなければならないということです。もし、神に守られて、城壁がいらないということなら、攻められることもなければ、戦うこともありません。それのほうがずっと幸いなことです。それは、城壁だけのことではありません。戦って勝つよりも、神に守られていて戦う必要がないほうがまさっています。キリストが、右の頬を打たれたら、左の頬を向けるように言われたのは、負けるようにということではなく、神がおられ、神が正しくさばかれるので、神にゆだねていれば、争ったり張り合ったりしなくても、一番良い結果になるということでしょう。それは幸いなことです。

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