2022年4月7日(木)
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聖書一日一章 ゼカリヤ書 3章
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あなたがたは互いに自分の友を招き合う。(10節)
ゼカリヤは幻を見ました。高い位の天使の前に、大祭司ヨシュアと、なんとサタンが立っていて、サタンはヨシュアを訴えていました。しかし、天使はサタンをとがめ、ヨシュアは汚れた服を着ていたのですが、その服を脱がせ、礼服を着させられました。神殿の再建の中心人物の彼が、何かの誹謗中傷を受けていて、それが再建の障害になっていたのでしょう。だれでも落ち度がありますが、トップに立つ人は注目されるので、非難されることが多いのです。おそらく、ヨシュアは落度を認めて、悔いていたのでしょう。天使は、神の言葉として、「あなたがわたしの道に歩むなら、あなたもわたしの家を治めるようになる」と宣言しました。キリストが、過ちを犯したけれど悔いているペテロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのに似ています。
ところで、8節では、神が「わたしのしもべ、若枝」を来させると言われます。この「しもべ、若枝は」キリストのことだと思われますが、10節では、その人が来るとき、「あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う」と言われます。互いに友を招き合うというのは、人々が仲良く、和気あいあいとした状態で、楽しく、温かく、人間として何よりも幸せなことです。キリストによってそのような交わりが実現するのです。
もっとも互いに招き合うことなら、普通の社会でもよくあります。しかし、いろいろ問題があります。招かれたら、関係上、行きたくなくても行かなければならないことがあります。また、招かれ、ごちそうになれば、お返しをしなければなりません。なかなか面倒です。それに、招かれるのは、同じ階層、同じグループの人であり、何かの魅力を持った人であり、人を楽しませることのできる人です。招かれる人があれば、招かれない人もあります。しかし、キリストにある交わりはまったく違います。教会は、すべての人が招かれています。愛しやすい人が招かれるのではなく、愛しにくい人が招かれるのです。それは、私たちがもともと、神に愛されない者であり、招かれない者であったのに、キリストが愛し、招いてくださったからです。私たちも互いに愛せない者でしたが、だんだんキリストに感化されつつあるのです。
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