2022年4月11日(月)

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聖書一日一章     ゼカリヤ書 7章

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彼らは拒んで聞こうとしなかった。(11節)

この章の出来事は「ダレイオス王の第四年」のことだと言われていますが、エズラ記によると、神殿の再建工事が再開されたのが、第2年、完成したのが第6年ですので、第4年と言えば、だいぶ建て上がった頃です。ある有力者が祭司や預言者たちに、バビロン軍によって神殿が破壊されたことを記念する第5の月の断食を続けるべきかと尋ねて来ました。ゼカリヤの所にも尋ねて来たとき、神から、「七十年の間、本当にこのわたしのために断食したのか」という言葉がありました。断食をやめるかどうか以前に、そもそも意味のある断食をしてきたのかと問われたのです。信仰的なことでも、神が望まれることではなく、本当は自分のためにしていることが少なくありません。ほんとうに神の望まれることか、み言葉に聞くことが大切だと思います。

さて、9節では、神が望んでおられることをずばり言われます。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。」神がほんとうに望んでおられることは、案外、当たり前のことでした。生活力がない弱い立場の人を虐げてはならないことは、言うまでもありません。

ところが、11節には、「彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった」とあります。そんな当たり前のことをどうして聞き入れなかったのでしょうか。おそらく、聞き入れられない事情があったのでしょう。たとえば、有力者たちの良い生活が、そういう弱い立場の人々の低賃金の労働で成り立っていたとかです。ヤコブもその手紙の5章で、金持ちたちの財産が畑の労働者に十分に賃金を払わないことで蓄えたものであることを指摘し、責めています。現在の世界を見ても、同じような構造的問題が至る所にあります。神が望んでおられることは、案外当たり前のことです。しかし、それに従うには、利己心や損得勘定を捨てなければなりません。そんなことは、私たち自身に弱さがあって、とても自分の力ではできません。私たちのうちにおられるキリストによって無私の愛を与えられ、聖霊によって満ち足りる心を与えられたいと思いました。

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