2022年4月14日(木)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 ゼカリヤ書 10章
_____________________________________________________________________________
わたしが彼らを贖ったからだ。(8節)
ゼカリヤは1節で、「主に雨を求めよ、後の雨の時に」と言います。自然の祝福のことのように聞こえますが、この章全体を見ると、霊的な祝福のようです。未来のどんな霊的な祝福でしょうか。4節。「この群れからかしら石が、この群れから杭が、この群れから戦いの弓が、この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。彼らは勇士のようになる。」神の民の中から、優れた指導者や勇士が輩出し、勇ましく戦うので、勝利するというのです。6節。「わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。」神は、まだバビロンに残っているイスラエル人を連れ戻すことを約束されますが、イスラエル人だけでなく、神から遠く離れている異邦人をキリストによって神に立ち返らせることも含めておられるように思います。7節。「わたしは合図して彼らを集める。彼らは以前のように数を増す。」神が人々を連れ戻されるので、人口が増え、人々はにぎやかに暮らすのです。キリストによってあらゆる国の人々が神に立ち返り、喜びに満ちた大きな群れになることも含めておられるようです。
さて、この箇所を、あらゆる国の人々がキリストによって神に立ち返ることの預言だと見るときに、5節の「彼らは勇士のようになる」という言葉が心に留まりました。キリストのもとに救いを求めてやって来る人々は、どちらかと言うと、私自身も含めて、弱い者、臆病な者、意気地のない者が多いように思いますが、たしかにキリストによって勇気が与えられます。少々のことでは動揺しない者、落ち着いた者、肝のすわった者になるのではないでしょうか。どうしてキリストによって勇気が与えられるのか、それは、キリストご自身がだれよりも勇気のある方だからです。キリストは身代りになって苦しみを受け、ご自分を殺そうとする人たちに身をまかせられました。腕力の強い人に勇気があるとは限りません。軍人に勇気があるとは限りません。キリストのように、暴力に無抵抗で立ち向かうとか、人のために自分を犠牲にするとかこそ、真に勇気の要ることです。キリストを信じる者は、そんなキリストにいつもつき従い、いつも見つめていて、しかも、いつも見守り支えてもらっているのですから、勇気が増さなければおかしいでしょう。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
