2022年4月17日(日)
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聖書一日一章 ゼカリヤ書 13章
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罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。(1節)
神は1節で、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」と言われます。この言葉だけでは何を預言しているのかよくわかりませんが、これは前の章からの続きで、その10節と関連していて、合わせて考えると、よくわかります。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、激しく泣く。」「恵みと嘆願の霊」というのは、神の恵みに気づかせ、嘆願の祈りをさせる霊という意味で、聖霊のことでしょう。神は人々に聖霊を注がれるのですが、そのとき人々は、ある人を刺し殺したことを悔いて、激しく泣くというのです。しかも、その、ある人というのが、なんと「わたし」、つまり、神なのです。これは、使徒の働き2章に記されている、キリストが復活し、昇天されて10日後のペンテコステの祭りの日に起こったことです。その日に、聖霊が洪水のように注がれましたが、人々はペテロのメッセージを聞いて、キリストが神から遣わされた神の子で、十字架で死んだが神が復活させられたことを知り、その尊い方を自分たちが十字架に釘づけにするという、とんでもないことをしてしまったことに気づき、悔いたのです。
そこでの、聖霊が注がれたという表現が、ここでは「泉が開かれる」というふうに表現されています。ですから、この泉は聖霊の泉です。ペンテコステの日に開かれましたし、キリストがヨハネの福音書7章38節で言われたように、信じる人の心の奥底で開かれるものです。この聖霊の泉が開かれることは言葉で表せないほど大きな恵みです。聖霊の泉は「罪と汚れをきよめる泉」と言われていますが、「罪と汚れ」の本質はいのちを損なうことですので、罪と汚れをきよめる聖霊の泉は、反対に、いのちを救い、いのちの本来の輝きをよみがえらせるもの、「いのちの泉」です。しかし、すばらしいものだけに、罪深く、神の怒りを引き起こしている人間には与えることができないものです。まず、罪が赦されなければなりません。ですから、キリストがすべての人の身代わりに十字架で死に、復活して、信じるすべての人の罪が赦されたことを宣言された後で、聖霊の泉が開かれたのです。
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