2022年4月21日(木)

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聖書一日一章     マラキ書 3章

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こうしてわたしを試してみよ。(10節)

神は1節で、「見よ。わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える」と言われます。神が未来に、道を備えるためにある使者を遣わされるというのです。この使者については、キリストがマタイの福音書11章10節で、バプテスマのヨハネのことを話される中で、この箇所を引用し、「と書かれているその人です」と言われたので、ヨハネを指すことは確かです。ところが、そのすぐあとで、「あなたがたが尋ね求めている主が突然、その神殿に来る」と言われます。ここでは、来るのは「主」、つまり神ご自身で、ヨハネではありえません。ヨハネ自身も「私の後に来られる方」と言ったようにキリストのことです。するとキリストは、神が「わたし」と言われ、「主」と言われる方で、神と等しい方だということになります。旧約においては、神と等しい方があるなどということは、だれも考えたことがありません。キリストはそんなすごい方なのです。

しかし、この預言においては、2節で、「だれがこの方の来られる日に耐えられよう」と言うように、キリストは、救い主というより、さばき主として預言されています。それで、神は8節以下で、レビ記などで命じられている十分の一のささげ物を人々がないがしろにしていることを「わたしのものを盗んでいる」と言って、悔い改めを求められます。ここだけ読むと、収入の十分の一をささげることは、神を信じるすべての人の義務のように思えますが、あくまで旧約時代のイスラエル人に命じられた義務です。キリストにあっては、献金は感謝から自由にするものだと思います。

それはそうとしても、10節で、「わたしを試してみよ。わたしが天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたに注ぐかどうか」と言っておられることは、すべてのキリストを信じる人に対するチャレンジでしょう。神から豊かな祝福を受けた後で、それに比べてわずかなものをささげることはたやすいでしょう。しかし、まだ受けていないときに、神の力と自分に対する愛とキリストにある祝福を信じてささげることに意味があるのです。私も信仰の弱い者ですが、このチャレンジに挑んでいきたいと思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成