2022年4月25日(月)

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聖書一日一章     マタイの福音書 3章

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だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。(7節)

キリストがお生まれになって30年ほど経ったとき、バプテスマのヨハネがヨルダン川のほとりの荒野で説教を始めました。らくだの毛の衣をまとい、いなごと野蜜だけで過ごし、世のすすに染まらぬ生活をし、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と勧めました。全国から人々が来て、罪を告白し、バプテスマを受けました。そこに、キリストが現れ、バプテスマを受けようとされましたが、ヨハネは、その人が来たるべき救い主であることに気づき、受けさせまいとしました。しかし、キリストが「今はそうさせてほしい」と言って受けられたところ、天が開け、聖霊が鳩のように下りました。

さて、ヨハネは7節で、大勢のパリサイ人やサドカイ人がバプテスマを受けに来るのを見て、「まむしの子孫たち、だれが迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか」と言いました。「まむしの子孫たち」という言い方はとてもきつい言い方です。8節以下も、平気で悪いことをしていて、まったく反省する気のない人に対する言い方です。しかし、パリサイ人やサドカイ人は、200年ほど前の宗教改革運動で起こったグループで、とくにパリサイ人は、律法を重んじ、神の教えに従おうとしていた人々です。しかも、バプテスマを受けに来た人々です。それなのに、どうしてほかの人々に対する以上にきつい言い方をしたのだろうかと思いました。おそらく、自分たちは愚かな人々を導く教師で、自分たち自身は悔い改める必要がないと考えていたのでしょう。ヨハネが、「迫り来る怒りを逃れるように教えたのか」と言っていることは、逃れられると思っていたということです。ヨハネが、「『われわれの父はアブラハムだ』」と思ってはいけません」と言っていることは、自分たちはアブラハムのような信仰の人だと思っていたということです。そうすると、バプテスマを受けに来たのは、悔い改めのためではなく、受けていないと民衆から不敬虔なように思われるからでしょう。それはパリサイ人だけではありません。私たちも、クリスチャンであることで、自分の周りの未信者は救われなければいけないが、自分はこれでいいんだと思ってしまうところがあります。クリスチャンである私たちこそ、悔い改めましょう。そして、キリストの赦しとさらなる聖霊の注ぎを受けましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成