2022年4月28日(木)
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聖書一日一章 マタイの福音書 6章
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天に宝を蓄えなさい。(20節)
キリストがある山で人々に教えられた教えの続きです。人に見せるための善行を戒め、人から尊敬されるための長い祈りを戒め、祈りの模範として、いわゆる「主の祈り」を教えられました。また、天に宝を蓄えるように教えられ、そうすると生活に困ると心配する人々のために、空の鳥と野の花を例に挙げて、心配しなくても神が養ってくださると教えられました。
さて、私は今日、20節の「天に宝を蓄えなさい」という言葉が心に留まりました。私はこの言葉を、天国に宝を蓄える、つまり天国で報いを受けるために働くことだと理解していました。しかし、「天に宝を」の「天」は、天国ではなく、神を指しているのではないかと思ったのです。というのは、マタイはほかの福音書が「神の国」と言っている所で「天の御国」と言っていて、「天」を神を指すために使っているからです。そうだとすれば、「天に宝を蓄え」るは、神から報いを受けるために働くという意味になります。神からの報いは、もちろん天国で受けるのが大きいでしょうが、それだけではなく、地上で受けることもあるでしょう。神から報いを受けるために働くのは、働いた結果をこの世の財にするのではなく、神に預け、神に保存してもらうようなものです。いわば、神の口座に預けるようなものです。
私たちは、天国の報いと言われても、ずっと先のことであり、現実感がなく、目の前の必要もあり、地上に宝を蓄えたくなります。しかし、神の口座に預けることだとすれば、もっと現実的になるのではないでしょうか。たとえば、「何を食べようか、何を着ようかと言って、心配しなくてよい」と言われますが、神の口座に多額の預金があれば、いつでも引き出せるので、心配いりません。祈りはさしづめ、キャッシュカードのようなものです。明日のことを心配するより、今日、神の口座の残高を少しでも増やしましょう。残高が多ければ、明日もあさっても来月も来年も安心です。
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