2022年5月2日(月)
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聖書一日一章 マタイの福音書 10章
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わたしもその人を知らないと言います。(33節)
キリストは、町や村を巡って教えておられましたが、迷える人々を見て、働きを拡大する必要を感じ、十二弟子を選び、町や村に遣わすことにされました。彼らを遣わす際に、5節以下のことを命じられました。私はその中で、33節が心に留まりました。「わたしを知らないと言う者は、わたしもその人を知らないと言います。」キリストは彼らに何も求められませんでしたが、「わたしを知らない」と言わないようにとだけは強く命じられました。
しかし、迫害する人々の前で、「キリストを信じています」と言うことは、苦しみを受ける覚悟のいることです。28節では、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」と、殺されることもあることをほのめかしておられます。38節でも、「自分の十字架を負って」と、十字架刑に処せられることもあることをほのめかしておられます。私たちもそんな覚悟が求められるのでしょうか。そんな勇気があるでしょうか。
よく読むと、キリストは弟子たちに、人並みはずれた勇気を求められたわけではありません。23節では、「人々が迫害するなら、別の町へ逃げなさい」と言われます。最後までとどまれではなく、逃げることを勧められるのです。たとえ逃げられなくても、29節で、「雀の一羽でさえ、父の許しなしに地に落ちることはありません」と言われます。つまり、神の許しなしには苦しみにあうこともないのです。たとえ、逮捕されても、19節で言われるように、「何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことはそのとき与えられます。話すのは、御霊」です。キリストは信じる者にけっして人並みはずれた勇気を求められるわけではありません。
その上、キリストによる救いは、神の恵みと憐れみによることであって、自分の意志で信仰を捨てるのでない限り、弱さのゆえに、キリストのことを知らないと言ってしまったとしても、赦されます。このときキリストの話を聞いていたペテロは、後にキリストのことを「知らない」と3度も言いますが、赦されました。ペテロが赦されたのなら、私たちも赦されるはずです。
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