2022年5月7日(土)
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聖書一日一章 マタイの福音書 15章
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言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。(6節)
キリストの弟子たちが食事の前にきよめの手洗いをしなかったのを、パリサイ派の人々が責めたとき、キリストは、彼らがきよめの手洗いの根拠とする言い伝えを、人間の言葉に過ぎないと、反対に批判されました。また、弟子たちに、本当の汚れは、外から来るものではなく、心の中にある罪深い思いだと教えられました。また、カナン人の女の娘から悪霊を追い出されたことや、4千人の聴衆をわずかなパンと魚で満腹させられたことを記しています。
さて、6節で、キリストはパリサイ派の人々を「言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」と言って非難されました。「言い伝え」とは、2節の「長老たちの言い伝え」と同じで、歴代の律法学者たちが聖書を研究して生み出した解説や分析や実践の手引きなどのことです。人々はその言い伝えを、聖書と同じようなものと思い、また、その言い伝えには、礼拝の仕方から生活の倫理から社会の様々な問題の解決法まであるので、それだけで十分だと思い、聖書自体に目を向けなくなっていました。会堂で聖書の朗読がされても、その言葉から学ぼうとしなくなっていました。キリストが言われるように、父や母に対する義務については、言い伝えの父や母に関する規則を重んじるのに、「父と母を敬え」という神の言葉は重んじていませんでした。しかし、たとえ言い伝えが聖書から研究したものであっても、聖書とは違うのです。聖書は神の言葉であり、言い伝えは人の言葉だからです。聖書をいつも読んでいるとわかりますが、こんなにも違うのかと思うほど違うのです。
そういうことは、教会においても起こりました。使徒の時代には、使徒たちの言葉つまり後の新約聖書になる言葉しかなかったので、クリスチャンたちは集まるごとにその言葉を学んでいました。しかし、やがて学者がたくさん出て、教えをまとめると、それだけで礼拝から生活から社会問題の解決までわかるので、だんだん聖書を読まなくなっていきました。やがて、聖書に帰ろうという運動が起こり、プロテスタント教会が生まれました。しかし、そこでも、いろいろなことが確立すると、聖書を読まなくなる傾向があります。私たちはいつも聖書を読み、聖書に聴く姿勢を持ち続けましょう。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
