2022年5月12日(木)

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聖書一日一章     マタイの福音書 20章

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だれも雇ってくれないからです。(20節)

キリストは、ヨルダン川の向こう側の地方を通って、エルサレムに向かわれましたが、その途上でのことを記しています。ぶどう園の労働者のたとえ話、ご自分が十字架につけられて死ぬことの預言、弟子のヤコブとヨハネの母が二人の息子を神の国で王座の右と左に座らせてくれるように頼んだこと、そのことで怒ったほかの弟子たちに対する教え、エリコの町で叫びながらついて来た二人の盲人の目を開けられたことです。

さて、ぶどう園の労働者のたとえ話の中で、ぶどう園の主人は、朝早くと、9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、5時ごろに市場に行き、労働者たちを雇いました。労働者には丸一日働いてもらわなければなりませんので、朝早く雇うのがふつうです。ですから、朝早く雇った労働者たち以外は、仕事にあぶれた労働者たちです。どうしてあぶれたのでしょうか。たまたまタイミングが悪くて声をかけてもらえなかったのかもしれませんが、多くは雇う人の目にかなわなかったのでしょう。雇う人は、その人の働きがそのまま収益につながるので、体格や健康、働き者かどうか、未熟か熟練かをチェックしますが、その目にかなわなかったのです。とくに、5時ごろ雇われた労働者たちは、「だれも雇ってくれないからです」と言っているように、雇う人のだれの目にも留まらなかったのです。いわば、役に立たないとみなされた労働者たちです。そんな人たちを、ぶどう園の主人が雇ったことは、役に立たないような者でも、ぶどう園つまり神の国に、主人つまりキリストが、拾い上げてくださることを意味していると思いました。もちろん朝早く雇われた労働者のように、最初から役に立つ人が神の国に招かれることもあります。しかし、キリストは神の国に招く上で、その人がどれだけ役に立つかは見られないのです。それどころか、見放されたような人に対する憐みに満ちておられます。私たちが尊敬する、大きな働きをしたクリスチャンの伝記を読むと、もともと不良だったり、体が弱くて家で何もしないでいたり、知られた姿からはとても想像できない昔の姿を見せられます。私自身、偏屈で、人とうまくやっていけない者でした。キリストがそんな私を憐れんで神の国に招いてくださったのです。そのことを覚え、感謝しました。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成