2022年5月15日(日)

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聖書一日一章     マタイの福音書 23章

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あなたがたの教師はただ一人です。(8節)

キリストは十字架につけられる直前、エルサレムで過ごされた数日、毎日神殿の広場で教えられました。ここでは、律法学者たちの偽善、つまり、立派な先生と見られるための見せかけ、誓いを守らないことをごまかすための屁理屈、誠実さよりも人の目につくささげ物を重んじていること、昔の預言者を殺した人たちと同じように不敬虔なのに、預言者を敬っているように見せかけていることを、批判しておられます。

さて、キリストは8節で、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです」と言っておられます。これは、律法学者たちの、体面を重んじ、先生と呼ばれることを好む偽善的なあり方と、対照的なあり方として命じられたことです。その文脈を超えて、ここにはキリストを信じる者の基本的なあり方が教えられています。先生と呼ばれるか呼ばれないかだけの問題ではなく、神のことを教えることについては、キリストだけが教師であり、信じる者はだれも教師ではなく、みな教えられる者であり、平等で、兄弟姉妹だというのです。私はこのあり方をアシュラムによって教えられ、牧師になっても、教える者ではなく、キリストから教えられる者という自覚を持っています。メッセージも自分がキリストから教えられたことをお分かちするつもりでしています。

この、キリストだけが教師で、信じる者はみな教えられる兄弟姉妹だというあり方は、実は、ほんとうに幸いな道であることを年々実感してきました。一つは、人間の先生よりもキリストのほうが断然良いからです。教える内容はもちろん、その深さも、教え方も、触れ合いも、自由さも、愛情も、比べ物にならないほど優れています。一つは、キリストお一人が先生なので、みなが同じ真理を教えられて、同じ信仰を持てることです。先生が多くいると、教えることがそれぞれ違ってきて、分裂し、たくさんのキリスト教ができてしまいます。一つは、キリストを信じる人々の間に、教える人と教えられる人の格差が生じることがなく、同じ立場の兄弟姉妹として親しい気の置けない交わりを持てることです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成