2022年5月16日(月)

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聖書一日一章     マタイの福音書 24章

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家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。(17節)

キリストは十字架刑の直前、神殿の建物に感心する弟子たちに、これらが崩されずに残ることはないと言って、世の終わりのことを話されました。

さて、15節から22節では、ダニエル書9章に、「『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立つ」と預言されている出来事、エルサレムが異邦人によって踏み荒らされる出来事について、注意を与えておられます。そのとき、「山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません」と注意されました。これは、津波からの避難でよく言われることとまったく同じです。物を惜しまず、一目散に逃げることは、津波だけでなく、地震でも、火事でも、悪い人に襲われそうなときでも、放射能の事故でも、いのちを守るために大事なことです。しかし、実際にその場にいたなら、せめて財布やカードや携帯だけは持って行きたい、あるいは、せめて上着と靴は取りに戻りたい、と思うのではないでしょうか。しかし、そうしたためにいのちを失ったケースは少なくありません。物を惜しむ気持ちはいのち取りになります。

永遠のいのちも同じです。キリストはルカの福音書9章62節で、「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」と言われました。永遠のいのちを得るために神の国に入ろうとしてから、「うしろを見る」つまりこの世に未練を感じて、やっぱり元の生活に戻ろうと思うと、永遠のいのちを得られません。また、マタイの福音書16章25節で言われました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」自分のいのち、つまり、この世の生活や持ち物や社会的地位などを手放すまいと思う者は、それ、つまり永遠のいのちを失い、わたしのために、いのち、つまり、この世の生活や持ち物や社会的地位を捨てる覚悟をする者は、それ、つまり永遠のいのちを見出すというのです。私たちは、永遠のいのちを得るために、たとえいばらの道であっても、キリストについて行こうと、一度は思ったのではないでしょうか。未練がましくうしろを振り返るとき、その決心を思い出しましょう。

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