2022年5月18日(水)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章     マタイの福音書 26章

_____________________________________________________________________________

こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして

成就するのでしょうか。(54節)

キリストが十字架につけられる直前、ベタニアのマルタとマリアの家におられたとき、マリアがキリストに高価な香油を注いだこと、イスカリオテのユダがキリストを売ったこと、最後の晩餐、ゲッセマネの園での祈り、逮捕、大祭司の邸宅での裁判、ペテロの弟子であることの否認を記しています。

さて、祭司長や長老たちから差し向けられた一団がキリストを捕えたとき、弟子の一人が剣で切りかかりました。そのとき、キリストは剣を収めさせ、神にお願いすれば12軍団以上の天の軍勢を送ってもらえると言い、「それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が成就しない」と言われました。逮捕を神の力によって避けるのは簡単だが、それでは聖書の預言が成就しない、それは一番不本意だと言われるのです。キリストは、いのちよりも、神の救いのご計画、それは聖書の預言に示されているが、そのご計画通りにすべてが進むことを、そのためにご自分の役割を正しく果たすことを気にかけておられたのです。キリストのこのような思いはこの章の随所に見られます。2節では、「二日たつと、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言っておられます。普通なら、そんな予想があれば、すぐにエルサレムから逃げ出すところですが、その神のご計画がその通りになることを願っておられたのです。12節では、マリアが香油を注いだことを「わたしを埋葬する備えをしてくれた」と言われました。神が彼女の行動を用いてご自分の埋葬の備えをされたと見ておられたのです。最後の晩餐では、イスカリオテのユダが裏切ることを知っておられ、そのことを指摘されましたが、止めもせず、神が彼によって敵対者たちを急がせ、予定通りに十字架にかけるようにされると見ておられました。また、ゲッセマネの園で、「みこころがなりますように」と祈られましたが、それこそキリストの何よりもの願いでした。そして、ご自分を捕らえようとする一団が近づいたことに気づいたとき、「さあ、行こう」と言われました。神が計画された十字架の道を、積極的に受けとめて行かれたのです。私たちも、少しでも、自分の願いよりも神のご計画が実現することを願うようになりたいと思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成