2022年5月23日(月)
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聖書一日一章 マルコの福音書 3章
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いのちを救うことですか。(4節)
キリストがカペナウムの会堂で片手の萎えた人を癒されたこと、ガリラヤ湖の湖畔で多くの人を癒されたこと、十二弟子を選ばれたこと、律法学者たちから「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言われ、答えられたこと、キリストの身内の人たちがやって来たことを記しています。
さて、キリストが会堂に入られたとき、そこに片手の萎えた人がいて、いつもそういう人を癒しておられたので、人々は、その日も癒されるのではないかと注目していました。と言っても、癒し自体に関心があったのではなく、そこにパリサイ派の人が多くいて、彼らの決まりでは、安息日に医療行為をしてはならなかったので、キリストがその決まりを破って対立するかどうかだったのです。キリストはその人を真ん中に立たせ、「安息日に律法にかなっているのは、いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」と言われました。片手が萎えていることは、生死に関ることではありませんが、それを癒すことは、より良く生きられるようにすることで、方向としては、いのちを救う方向だと言えます。逆に癒さないことは、いのちをだめにする方向です。どちらが律法にかなっているかと問われたら、当然、癒すことでしょう。
しかし、パリサイ派の人たちはそうとは考えませんでした。キリストがその人を癒されると、どうやってキリストを殺そうかと相談したことでわかります。彼らは、安息日にしてはならないと決められていることは、何が何でもしてはならないと、つまり、決められた条文に従うことが律法の目的だし、善だと考えていたのです。
それに対し、キリストは、何が律法の目的か、何が善かということで、新しい基準を教えられたと言えます。つまり、いのちを救う方向こそが律法のめざすところであり、善だということです。私たちの社会でも、いろいろな法律があり、いろいろな習わしがあり、いろいろな取り決めがあります。そんな中で私たちは、何が善かを見失ってしまうことがあります。いのちを救うこと、いのちを生かすことが善であることをキリストから教えられます。
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