2022年5月30日(月)

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聖書一日一章     マルコの福音書 10章

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自分のいのちを与えるために来たのです。(45節)

ここでは、離婚についての問答、子どもたちを迎え入れられたこと、永遠のいのちを求める青年との問答、十字架刑と復活の予告、だれが偉いかについての教え、エリコの町の目の見えない物乞いの目を開かれたことを記しています。

さて、弟子のヤコブとヨハネは兄弟でしたが、キリストに、王座に着かれるとき、自分たちを右と左に座らせてくださいと願い出ました。キリストは、「わたしが飲む杯を飲むことができますか」と尋ねられ、彼らが「できます」と答えると、キリストは言われました。「たしかに、わたしが飲む杯を飲むことになりますが、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。」「わたしが飲む杯」とはキリストが受ける苦難のことで、それを飲むとは同じ苦難を受けることを意味します。そのとき「飲むことになる」と言われたように、ヤコブはヘロデ・アグリッパ王に殺されることになりますし、ヨハネは晩年小さな島に閉じ込められることになります。

二人のやり取りを聞いたほかの弟子たちは、二人が自分たちを出し抜いたことで腹を立てました。そこでキリストは、十二弟子全員に言われました。「異邦人の支配者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」上の者が下の者を支配し、使役し、だれもが上に立とうとするような社会ではなく、互いに仕え合い、だれもがもっと仕えたいと思うような社会を教えられたのです。それこそ、神の国の社会、秩序だからです。

ところで、そんな互いに仕え合う神の国で、偉い人とはどんな人でしょう。キリストは偉くなりたいと願う二人に、ご自分の杯を飲むように言われました。その杯とは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与える」ことでした。つまり、キリストのように、人々のために自分のいのちを与えるような人が偉いのです。人々をより多く愛し、いのちも惜しまないほどに愛する人が偉いのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成