2022年6月23日(木)

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聖書一日一章     ルカの福音書 18章

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いつまでも祈るべきで、失望してはいけない。(1節)

冷酷な裁判官とやもめのたとえ話、取税人の祈りのたとえ話、幼子たちを呼び寄せられたこと、永遠のいのちについての質問と答、エルサレムで殺されることの予告、エリコの町の盲人の癒しを記しています。

さて、この章では、1節に、「いつまでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」とあるように、祈りについて教えられます。冷酷な裁判官とやもめのたとえ話はけっさくです。裁判官は「神を恐れず、人を人と思わない」人で、自分の利益にならない限り、だれにもひとかけらの親切もしない人なのに、何の力もないやもめが何度も訴えに来、追い返してもあきらめずに来続けると、根負けしてしまったというのです。訴え続けると、冷酷な裁判官でも、訴えを聞き入れるのなら、キリストを信じる人が祈り続けると、憐れみに満ちた神が聞き入れられないはずがありません。私たちは祈りにおいて、やもめのなりふりかまわず訴え続ける姿勢に教えられます。

取税人の祈りのたとえ話で、祈りを聞き入れられた取税人は、人々から遠く離れて立ったこと、目を天に向けようとしなかったこと、「罪びとの私をあわれんでください」と言ったことから、罪を深く自覚していたことが伺えます。キリストはそんな彼のことを「自分を低くする者」と言われます。祈るときに、そのように罪を深く自覚し、自分を低くすることが大切です。

また、エリコの町の盲人は、前からうわさに聞いていたキリストが、町に来られたことを知って、「イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。これはキリストへの祈りです。キリストはそのとき、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。その人は目が見えないために物乞いをしなければならないのですから、してほしいことは、目が見えるようになることなのは、明らかです。それなのに、尋ねられたのは、何を求めているのかをはっきり自覚させるためでしょう。そして、キリストならそれができるとしっかり信じて求めさせるためでしょう。祈るときに、何を求めているのかをはっきり自覚すること、キリストならできると信じて求めることが大切です。

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