2022年8月6日(土)

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聖書一日一章     使徒の働き 17章

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偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(16節)

パウロは、第二次伝道旅行で、ヨーロッパに入り、その地方の中心都市テサロニケに行きました。ユダヤ人の会堂で話したところ、大勢の人がキリストを信じましたが、反対するユダヤ人たちが暴動を起こしたので、ベレヤという町に逃れ、そこにも追いかけて来たので、今度はアテネに逃れました。パウロはアテネで、人々が自由に議論するアレオパゴスの丘で、耳新しいことを求めてたむろしていた人々に、真の神とキリストのことを話しました。

さて、16節には、「パウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」とあります。パウロが憤ったとか、怒ったとか言われているのはここだけです。この怒りは、自分が害を受けたことによる怒りではありません。私たちは普通、傷つけられたり、苦しめられたり、奪われたり、蔑まれたり、責められたりして、自分が害を受けたときに怒ります。しかし、パウロは、石打ちにされても、牢に入れられても、怒りませんでした。

パウロの怒りは、神が卑しめられていることによる怒りであり、神への愛から出た怒りでした。29節で、「神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」と言いますが、人々はそのように考えて、神を卑しめていました。24節で、「神は天地の主ですから、手で造られた宮にお住みになりません」と言いますが、自分たちが宮を造り、神を住ませてあげているように考えて、神を卑しめていました。また、25節では、「何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません」と言いますが、人々は、食べ物を供えたり、拝んで喜ばせたりして、世話をしてあげているように考えて、神を卑しめていました。神を知らないだけでも、神に失礼ですが、知らないのに、神を卑しいもののように考え、卑しく表現するのは、まったく無礼で、それこそ罪の核心です。しかし、神はそんな卑しい存在ではありません。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神であり、天地の主であり、何一つ不足のない方であり、すべての人にいのちを与えられた方であり、私たちがその中で生き、動き、存在している方です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成