2022年8月29日(月)

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聖書一日一章     ローマ人への手紙 12章

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神のみこころは何かを見分けるようになります。(2節)

パウロは、人間の罪について、キリストの救いについて、救われた者の新しいいのちにについて、聖霊による勝利について、神の、世界の救いのご計画について語りましたが、ここからは、救われた者の生き方について語ります。

1節では、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と言います。旧約時代の礼拝は、牛や羊をほふって、神にささげるものでした。それは、キリストの十字架の死を預言するものです。キリストは、十字架の上で、ご自分のからだを、神に、生きたささげ物として献げられました。それによって救われたクリスチャンも、自分のからだを生きたささげ物として献げなさいと言うのです。と言っても、クリスチャンの場合は、死ぬ必要はなく、むしろ、自分のからだを神にささげ、神のために生きることです。

次に、その生き方を具体的に教えます。思い上がらず、与えられた賜物を慎み深く受けとめ、その賜物を用いて仕えること。偽りなき愛をもって互いに愛し合い、尊敬し合うこと。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えること。互いに助け合い、もてなし合うこと。迫害する者を祝福すること。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くこと。互いに一つ心になり、へりくだって、身分の低い人々と交わること。すべての人が良いと思うことを行ない、すべての人と平和を保つこと。どれ一つ取っても難しいですが、そうしなければならないと思わず、目標としてあこがれ、聖霊の助けを祈り求めましょう。

ところで、2節では、そのような生き方をするときに、「神のみこころは何かを見分けるようにな」ると言います。クリスチャンなら、神の御心に従いたいと思うでしょう。しかし、実際、何かを決めるとき、何が御心なのかわからなくて悩むのではないでしょうか。それで、神の声が聞こえて来ないかと思ったり、何か御心を示すしるしはないかと思うのです。実は、そんな声やしるしがなくても、神に自分のからだといのちをささげるような生き方をするなら、何が御心かは自然にわかるというのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成