2022年8月31日(水)
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聖書一日一章 ローマ人への手紙 14章
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私たちは主のものです。(8節)
パウロは、ここでは、クリスチャンの間で意見が対立する問題について、どのように考えるべきかを教えます。その一つは、肉を食べてよいかどうかです。当時、売られていた肉は、屠殺のときに偶像宗教の儀式をしたものだったので、食べてはいけないと考える人がいたのです。もう一つは、「ある日を別の日よりも大事だと考える」かどうかです。「ある日」とは、おそらく安息日のことでしょう。ユダヤ人のクリスチャンにとっては、小さいときから聖なる日として守ってきた安息日は特別だったのです。そういうことにこだわる人を「信仰の弱い人」と言うように、全体的には、こだわらない雰囲気があって、こだわる人を「信仰の弱い人」と見るところがあったようです。
パウロは1節で、「受け入れなさい。さばいてはいけません」と言います。パウロは、信仰の本質的なこと、例えば、救われるために、律法を守ることが必要かについては、少しも妥協しませんが、そうでないことは、違いを受け入れ合うべきだと考えていました。その理由は、一つは、クリスチャン一人一人はキリストのしもべで、さばくとすれば、主人であるキリストなので、主人でもない者がさばいてはいけないということです。一つは、どちらの考えの人も、主のためにそうしているので、目的や動機は正しいということです。一つは、14節で言うように、「それ自体で汚れているものは何一つ」ないということです。一つは、17節で言うように、「神の国は食べたり飲んだりする」場ではなく、「聖霊による義と平和と喜び」の場なので、飲食のことで、神の国から追い出さないようにということです。一つは、23節で言うように、「信仰から出ていないことは、みな罪」なので、それぞれ、人の意見に従うのではなく、信じた通りにするようにということです。
ところで、8節で、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と言います。私たちは、信じたときに、主のものとされました。ただ、一番、主のものらしくなるのは、主のために生きるときです。また、主のものであれば、自然に、主のために生きるようになるでしょう。
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