2022年9月4日(日)
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聖書一日一章 コリント人への手紙第一 2章
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十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまい。(2節)
パウロはコリントに初めて行ったときのことを思い出して、「私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」と言います。この意味は、十字架のことだけを語ったということではありません。あくまで、十字架につけられた方、キリストのことを語ったのです。また、「何も知るまいと決心していた」と言うので、キリストのこと以外何も語らなかったのかというと、そうではないでしょう。使徒の働きを見ると、行く所行く所で、よく論じています。それは、「すぐれたことばや知恵」つまりこの世の知恵を知らないことにして、用いないでいたということです。
パウロは律法学者で聖書に通じていましたが、使徒の働き17章を見ると、ギリシャの文学や哲学にも通じていたことがわかりますし、エジプトやペルシャの文化にも通じていたでしょう。そんなパウロが、その高い教養をひけらかせば、人々は尊敬し、先生と思い、生徒になろうとし、何でも学ぼうとするでしょう。そうなれば、彼が言うことは何でも受け入れるでしょうから、キリストのことを話せば信じるでしょう。しかし、そうしなかったのです。
そのため、4節のように、「私の宣教は、御霊と御力の現われによるもの」になったと言うのです。もし、彼らがパウロの教養によって信じたのであれば、その信仰はその程度というか、パウロがその地を去るとか、ほかのいろいろな状況の変化によってなくなってしまうものでしょう。新しく生まれ変わるというような奇跡は起こらないでしょう。しかし、パウロが彼の人間的な力を用いなかったので、彼らの信仰は聖霊しか与えることができないものになったのです。それはすばらしいことです。ただ、パウロは何の教養もない者と同じになり、3節で「恐れおののいていました」と言うような心境でした。私たちも自分の持っているものに頼らず、聖霊の御力だけを頼って伝道しようとすると、恐れおののかないではおれないでしょうが、きっとすばらしい神の奇跡を見ることでしょう。
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