2022年9月8日(木)

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聖書一日一章   コリント人への手紙第一 6章

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だまし取られるままでいないのですか。(7節)

パウロはここでは、コリントのクリスチャンたちの間で争いが起こったときに、不信者の裁判官に訴えていることを問題にします。当時コリントは、ローマ帝国の統治下にありましたから、ローマ帝国の司法制度に則って裁判官がいて、そういう裁判官に訴えていたのでしょう。パウロはローマ帝国の司法制度を問題にしているのではありません。ローマ人への手紙13章で、「存在している権威はすべて、神によって立てられている」、「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです」と言っています。司法制度を含めて、政府や制度は、罪深い人間が互いに滅ぼし合わないように、歯止めとして神が立てられたもので、神の恵みです。パウロが問題にしているのは、キリストによって罪深いこの世から取り出され、キリストに従って歩むようになり、神の国の国民となったクリスチャンが、争いになると、不信者の裁判官に仲裁を頼むことです。キリストを知らず、真理を知らず、悔い改めていない罪人であるのに、どうしてそんな人々に頼るのか、どうしてキリストを知り真理を知っている人々の中で解決しないのかと言うのです。

それで、クリスチャンたちの間の争いを自分たちで解決するために、7節で言います。「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」争いになるのは、両者がどちらも相手が悪いと言って譲らないときです。どちらにも強い思いがあり、説得してどちらかに折れさせるのは、至難の技です。その解決には、2つの方法しかありません。裁判官のように、どちらかが悪いとさばき、権威によって、力ずくでその判決に従わせることです。しかし、クリスチャンの間には、そんな権威はありません。そうすると、もう一つの方法、どちらかが引き下がり、こぶしを下ろし、「悪かった」と言って、あえて負けることです。つまり、右の頬を打たれて、左の頬を出すことです。それしか、争いをやめる道、平和への道はありません。それはたしかに損な道です。しかし、それはキリストに習うことであり、キリストが勝利されたように勝利の道です。また、キリストが栄光を受けられたように栄光と祝福の道です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成