2022年9月10日(土)
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聖書一日一章 コリント人への手紙第一 8章
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だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3節)
パウロはここでは、偶像の神にささげた肉を食べてよいかの問題を取り上げます。当時、町で出回っていた肉は、市場で売られている肉も、たいがい一旦偶像の神にささげたものでした。生きているものを殺すので、心理的に抵抗があり、偶像の神にささげたことにしたのでしょう。クリスチャンたちの中には、偶像の神にささげた肉は汚れていて、食べてはいけないと考える人たちと、偶像の神は本当は存在しないので、肉は汚されることがなく、食べてよいと考える人たちがいました。ここでは、偶像の神は存在しないと割り切って考える人々に、そうは割り切れず、食べると自分が汚れるのではないかと恐れる人々のことを思いやるように勧めます。
さて、3節では、「だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています」と言います。私たちは神を信じると、神のことをよく知りたいと思います。聖書を読んだり、信仰書を読んだりすると、知識を深めることができますが、同時に、わからないこともたくさん出てきて、知りたい、学びたいという気持ちになります。そのように、神をよく知りたいと思うことはとても良いことですが、パウロは、それとは反対方向の「神に知られる」ということに目を向けさせます。私たちは、神に知られるということをあまり考えたことがありませんが、考えてみると、私たちの永遠のいのちのためにきわめて大切なことです。マタイの福音書25章35節には、キリストにある兄弟姉妹に親切にした人には、キリストが世の終わりに再臨されるときに、「わたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と言われるとあります。私たちが信仰に基づいてした行いを知っておられるのです。もっとも、私たちは良い行いをするどころか、罪を犯すことのほうが多い者です。しかし、パウロはテモテへの手紙第二2章19節で、「主はご自分に属する者を知っておられる」と言います。神は、私たちがキリストを信じていることを知り、その信仰のゆえに罪を赦し、ご自分に属する者とみなし、そのような者として知っておられるのです。神に知られていることは幸いなことです。永遠に安心です。
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