2022年9月22日(木)

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聖書一日一章     コリント人への手紙第二 4章

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私たちは自分自身を宣べ伝えているのではない。(5節)

パウロはここでは、コリントにやって来た、正統な教師と自称し、自分を推薦する人々に、クリスチャンたちが惑わされないように、彼自身がどんな心がけでキリストの救いを宣べ伝えているかを語ります。2節では、「隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げ」ないことで、わざわざ自分を推薦しなくても、事実によって「自分自身をすべての人の良心に推薦しています」と言います。それでも誤解する人がいたからでしょう。4節では、「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くしている」と説明します。私たちは、自分の利益や損得のためではなく、人々がキリストによって救われ、平安を得、望みを持って生きられるように、キリストの救いを宣べ伝えるべきです。私たち自身に不純な動機があるなら、悔い改めなければなりませんが、どんなに純粋な動機で宣べ伝えても、お金を集めるためだとか、教勢を拡大するためだとか、誤解して悪く言う人はいます。悪魔が働いている限り、悪魔が人々の心を暗くして真実が見えないようにするのは仕方のないことです。

5節では、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです」と言います。この世の哲学者、思想家、評論家は、自分の考えを伝え、広めようとし、そのために自分がどれほど知識を持っているかをアピールします。しかし、キリストの救いを宣べ伝える人は、自分の考えを伝えるのではなく、キリストの教えを宣べ伝える、もっと正確に言えば、救いを与える救い主キリストご自身を宣べ伝えるのですから、伝える人自身の考え、知識、人物は関係ありません。7節では、「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」と言いますが、それはキリストと言う宝を、使い捨てのもろい土の器のような人間が知っていて、宣べ伝えているという意味です。伝える人がどんな人間であるかは関係ありませんが、土の器のような弱く、取るに足りない人間のほうが、キリストが、よりはっきり見えると言えます。パウロはこの世的にもすぐれた人でしたが、できるだけ自分を無にして宣べ伝えていました。私たちもその姿勢に見習いましょう。

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