2022年9月25日(日)

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聖書一日一章   コリント人への手紙第二 7章

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聖さを全うしようではありませんか。(1節)

パウロは「あの手紙」と言って、2章で触れた、前の手紙のことを話します。これは第一の手紙のことではなく、その後に出した手紙で、現存していません。8節では、「あの手紙によって、あなたがたを悲しませた」と言っていることから、叱責する厳しい内容だったようです。11節では、その手紙は悔い改めを引き起こし、処罰を断行させた、つまり、交わりを断たせたと言います。よそからやって来た異なる信仰を広める人たちがいて、その人たちは本質的に異教徒なのですが、クリスチャンの中に同調する人がいたのと、ほかのクリスチャンがそのことに無頓着だったのは大きな問題で、そのことを責めたのでしょう。幸い、それによってクリスチャンたちが断固とした態度を取り、同調した人々と交わりを断ったのでしょう。それはその人々を罰するためではなく、正しい信仰に立ち返らせるためで、その目的は達せられたようで、2章で「その人を赦してあげなさい」と言っています。7節では、それらすべてをコリントから帰ったテトスから聞いて慰められたと言います。

さて、1節では、「このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、聖さを全うしようではありませんか」と言います。「約束」とは、直前の神の言葉「あなたがたはわたしの息子、娘となる」でしょう。神の子どもとなると約束されているのだから、神の子どもにふさわしく一切の汚れを除き、まったく聖い者になろうというのです。それはよくわかりますが、私たちは聖人ではないので、とても難しく思います。しかし、実はそうではないことに気づきました。まず、聖いことは、したいことをせず我慢することではありません。ご馳走を食べ、遊び、趣味を楽しみながら、聖くあることはできます。また、聖い生活は、禁欲的な生活ではなく、むしろ健康的な生活です。また、聖い生活は、そうしなければ罰せられることではありません。神の子どもとなる約束は確実なので、したい人がすればよいのです。また、人と比べ、あの人はあんなに聖いのに、自分は全然だめだと思う必要はありません。人は人、自分は自分です。それでも汚れた欲望を抑えなければならないのは、欲望が病気だからです。欲望の癒しが必要です。また、聖くなることは、やがてともに暮らす天の家族になじむことです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成